かわせみ側溝から

志は低空飛行 

すべての子供に(公)教育が必要か?   世界の果ての通学路



世界の果ての通学路/パスカル・プリッソン監督

 FB友達のつぶやきで地上波放送を知り観ることが出来た。感謝。
 内容は題名が示している通りで、辺境の地で暮らす子供の通学がいかにドラマチックなことなのか、というドキュメンタリー。多少フランス臭さが鼻につくところはあるが、まあ、そういうところはもはや問題にすることも無いような事になっていく。ともかく大変な通学路の連続で、遠いだけでなく、危険もいっぱい。そうして通学の途中にもいろいろなドラマがあるわけだ。ケニアの兄妹、アルゼンチンの女の子たち、モロッコの馬の旅、そしてインドの障碍のあるきょうだいの車椅子を押しての通学の4つが、群像劇のように紹介される。
 ケニアでは野生動物に襲われないように注意しながら歩く。特にゾウに出会わないように(あのゾウさんがこんなにも悪者だったなんて!)、出会っても完全に逃げられるようにしなければならない。いちおう制服のようなものを着ている兄妹が、まさにサバイバルという感じで荒野を横断していく。
 アルゼンチンの女の子たちの一人は途中で足が痛くなってしまう。分裂しかかる友情も含めて、大人たちのシビヤな目もありながらの珍道中という感じ。勉強しなきゃという面もあるが、少女たちの怠惰な感じもあって、少し等身大かもしれない。
 モロッコは馬に乗れる兄の背中にしがみついていくしかない女の子が印象的だ。兄の背中にしがみついているだけでは、風景も見えないのかもしれない。危ないから禁止されている様だが、お兄ちゃんの前に乗りたくて仕方がない。最初は無碍なく要求を断る兄だったが…。
 インドの三兄弟の兄は、障碍で手足が不自由なようだ。すさまじくおんぼろの改造車いすを押して、悪路を苦戦しながら押したり引いたりしていく。ついには車いすのタイヤが外れるアクシデントまで。近道しようとすると悪路にはまり込むし、まったく思うように車いすは押せない代物のようだった。
 通り一辺倒の感想を引き出して言うと、当たり前の教育だと思っていただろう自分を鑑みて、もう一度恵まれていることを見直してみては如何? ということだろう。それは確かに身に染みる。学校も勉強も嫌いだった自分に嫌悪感を覚えることだろう(そうだった人は)。もう一つは、やはりこれだけの困難がある人には、一定の支援が必要なのではないかという素朴な疑問が湧くのではないか。それはある意味で先進国といわれる国の住人でも、責任のあることではないのか。
 しかしながら、やはりこれは僕らの視点が入っているという批判も必要だろう。そうまでして学校に行く意味というのは、本当にあるんだろうか。学校は大人になる自分の可能性を広げることになることに異論はない。しかしサバンナに暮らす人間が本当に必要な技術は、机の上で勉強することなんだろうか。そういうことを含めて、西洋的な価値観の文明に暮らす人と接点を持ってしまった人間の不幸が始まる、という見方が出来なくもない。いや、そういう視点がありながら、本当の選択が可能になるのが、教育の意義であるはずだ。ドキュメンタリーで学ぶべく教育というものは、そのような背景を同時に考えるということでもあろう。
 むしろ人間は、このような辺境の地でも暮らしていける能力を、本来は持っているということだ。そうした能力を捨てなければ、違った価値観の世界では生きていけなくなってしまった。それが教育の必要な意味である。僕らが本当に忘れてしまっているのはそういうことで、だからこそ自分や子供たちへの教育ということを考えなければならないわけだ。何かの手段のための利己的な成果のためだけに教育はあるのではない。もちろんそのことに気づかされる人もいるという意味では、価値ある問題提起なのだろう。