かわせみ側溝から

志は低空飛行 

合理的日本の私たち



 ラジオを聞いてたら帰国子女だという青年が、「(自分はそういう経験もあって)意見をはっきり言う。自分の意見を伝えることにためらいもないし、他人からもはっきり言われないと分からないこともある。グローバル化した世界にあって、やはり日本人はもっとはっきり物事を言うべきだ(大意)」という発言をした。スタジオでちょっとどよめきがあった後、「いや、そもそも日本人の多くは、意見を言わないのではなく、意見が無いのだ」という発言があった。いう必要が無いことに、わざわざ自分の意見を探して発言することをしないだけだと。
 でも、意見があっても、場の空気を恐れて発言しない人がいるのは事実ではないのか?
 たとえ会社や人の為になるような意見を持っていても、波風立てたくないから発言しないのは、実は合理的ではないか。それはその人にとって、場の空気を乱すことより優先順位が低いだけのことだからだ。良い意見を言ったとしても、自分が嫌われるうえに、給与が変わるわけではない。そのような重要度の低いことにリスクを負ってまで発言する方がどうかしている。
 日本人が意見を言わないのは、つまるところシャイだからとか、無責任とか、その他の理由ではなさそうだというのは、確かにその帰国子女君が証明しているのかもしれない。彼はおそらく日本人なんだろう。その場に適合していないだけのことで、さらにグローバルであるだけのことだ。
 僕は場の空気を乱してまでも意見を言うことはよくある。しかし考えてみると、僕にはそのような役割を求められているようなフシがある。結局場の空気を読んで乱している役割の人なのかもしれない。さらに嫌われることが好きな訳ではないのだが、そういうことよりも自分が違うと思うことにそのままでいることの方がつらいということもある。しかしたとえそうであっても、やはりあんまり関係ない人のところでは、間違いを見つけても黙っている。それくらいは日本人的に大人である。子供でいても許容のある場でしか発言していないだけのことかもしれない。たとえばやくざな人が煙草の投げ捨てをしても、たぶん僕はその人を注意したりしない。怖いからというのもあるだろうが、馬鹿らしいからだろう。
 日本人が発言しないのは、要するに文化であるに過ぎない。意見を言わないで済んでいる文化だからこそ、少数意見の雑音の中で暮らすことが出来るというのが結論のようだ。