
刑事コロンボ 仮面の男/パトリック・マクグーハン監督
策士策におぼれるというお話。多かれ少なかれコロンボにトリックを破られる運命の犯人にとっては、そういうことはいつものことではあるけれど…。それにしても重層的にトリックを準備しており、しかしそのトリックそのものより、細部にわたる観察眼でトリック周辺の根拠を覆すというあたりが、さすがにコロンボなのである。犯行の説明は映像で見せて、謎を解いた意味はすべて気の利いた会話で行うということもあって、後半のスピード感に釈然としなかった覚えがある。今回は見返してみて、それなりに説明になっていることが分かったが、僕の子供時代には少しハードルが高かった作品かもしれない。
ハードルが高いというか、この最後のオチのわけのわからなさは、ネットの解説を見るまでやはり意味は理解し得なかった。分からないのも無理もなく、翻訳では意味不明である。本当は、「中国がまた気が変わってゲーム参加するらしいですよ」というコロンボの引っ掛けに、「それはオリンピックじゃなくて、マージャンというゲームの方にだろ」というやり返す会話に、面白さがある訳だ。麻雀を使うのは、劇中にも複線がひいてあり効果的である。おそらく翻訳者もその面白さは分かっていただろうが、会話にそのような説明を入れるのは野暮だし、ちゃんとした日本語でオチを面白くするのを断念したと考えられる。懲りすぎた会話というのは、吹き替えの翻訳泣かせに違いない。
ところでいろいろ仕掛けも面白いのだけど、マクグーハン監督もの(いくつかある)には、妙にハードボイルド的なスタイリッシュさを出したがるようにも感じる。コロンボの犯人を追い詰めるいやらしさというよりも、お互いの駆け引きがかっこいいということに主眼が置かれているように思える。コロンボがしつこく犯人を追い詰めるという流れそのものが、社会的地位がありながら殺人という罪を犯した人間を既に精神的に罰していると思われるわけだが、そういう部分をあえてそぎ落として、いわばゲームとしての犯罪の暴き方に主眼が置かれているわけだ。
そういう考え方が悪いとは言わないが、だからそういう展開になると少しばかり見ている方が戸惑うということはあると思う。それなりの優れたトリックであるばかりか、本当に確信的な犯行を認めるすべての要素ではなさそうだ。確かに主要なトリックが崩されたことは間違いなさそうだが、それで犯人は犯行を認めてしまって良いのだろうか。
答えとしてはそれでよい。犯人はトリック合戦に、いわば知性戦として敗れたのだから。そういうもうひとつのコロンボの面白さを強調した作品が、これだ、ということであり、マクグーハン作品は、そういう部分を際立たせたかったということなのだろう。
コロンボは、重層的にさまざまな世代から愛される作品群になっているわけだが、このような多様性のある作品群があるからこそ、ということでもあるようだ。作品によっては好き嫌いもあるだろうが、また次も観たいと思わせるのは、単純なワンパターンでない所為ともいえるのかもしれない。