かわせみ側溝から

志は低空飛行 

息もできない


息もできない/ヤン・イクチュン監督

 こういう映画を見ると、平和な家庭に生まれて本当にしあわせだったなあとつくづく思う。いや、本当は本当に幸福だったのかよく自覚してないのだけど、むしろ不幸だったこともそれなりにあったようにさえ思うのだけれど、このような状態に比べたら、特にこれといって文句を言うべきでないというような気分になるということだ。家庭内の暴力の逃げ場の無さと恐怖。そして際限のない暴力の連鎖。親の暴力があって子供も暴力に染まっていく。きっかけは貧困の影と、そして身内であるという親しさゆえの甘え。外では恐らくそこまで凶暴で無い筈の親が、家庭内では容赦なく暴力をふるう。そしてどんどんエスカレートしていく。絶対的な弱者である子供は、ただ泣いて耐えるより無い。苦しいが逃れられない。そして頼るしかないのは、恐らくその狂暴な親しかいないのだ。これを地獄といわずになんというか。
 最初は主人公のあまりの無頼ぶりに嫌悪しか覚えなかったが、段々事情が分かってきて、その心の中の限りない寂しさに共感さえ覚えていく。ついには心の再生を果たすかに見えたのだが…。
 韓国社会のことはよく分からないが、庶民が暴力の中に埋もれながら生活している様子が非常にリアルだ。現在は豊かになった韓国の事情はよく伝わってくるのだが、全体的にはこのような貧困の匂いが漂う社会なのかもしれない。もちろん映画だから誇張もあるだろうが、日本の30年代に通じるような、貧困と暴力の共存と、そして人情というものが良く伝わってくる。このような空気は、すでに日本では失われて久しい情景ではなかろうか。人間として生まれてきた悲しさというものが、見事に描かれた傑作ということは間違いがない。
 暴力をふるう人間にも才能というのがあるのではないだろうか。悲しいかなそのような才能に目覚めるしかない環境がある。必死でもがいて逃れてようとしても、自分自身はその世界に染まるより別の生き方ができない。
 痛い目にあわせて本当に分からせたい目的があるわけで、その目的達成の後、相手がどうなるのかを極力考えないのであれば、暴力というものは本当の威力を発揮する。つまり暴力は手段として用いられるわけで、目的ではない。目的達成のために最も短絡的に効果的なものが暴力であり、麻薬のようにその力に染まっていくのが人間である。破壊するのは一瞬だが、築きあげるのにはたいへんに時間と根気が必要だ。一度使ってしまった暴力は取り返しがつかないのであり、そして簡単に連鎖してしまう。最初に持ち上がってしまった怒りを具体的な形にしない努力は、そう簡単に抑止できるものではない。
 考えてみると豊かさというのは、そのような暴力を大きくねじ込むことができるような、さらに大きな力なのかもしれない。社会が家庭にまで安心を与えられるような、そのような大きな力を持つ国家で暮さない限り、本当に暴力から逃れることはできないのではなかろうか。そしてその社会からあぶれるような個人が出てくると、簡単にその部分は暴力化してしまうのだ。
 個人的な、そして小さな社会の地獄絵図を見ているようでいて、しかしながら社会的な豊かさとは何だというようなことまで考えさせられてしまった。日本を悪く言う人は趣味であればしょうがないが、しかし本当に豊かな国とは何なのか、改めてそのことを思わずにはいられないのだった。