かわせみ側溝から

志は低空飛行 

漢字だけの人でない人 追悼:高島俊男



 高島俊男が亡くなった。84歳と高齢なので亡くなったこと自体は不思議ではない。晩年は目を患って口述筆記をしていらしたとは聞いている。以前ほどは本が売れなくなったというか読まれなくなってしまったようで、大手の雑誌などの連載はなくなってしまった。ネットで少し書かれていた時期もあったが、不定期でいつのまにか終わってしまったような感じだった。 
 僕は高島俊男が登場したのちの比較的早くからの読者だと思う。何らかの形で30年近く読んでいるのではないか。東大卒でもあるし博識で、当然大学の先生もしていたようだが、やめて文筆業一本になった。それは食えるからなったというよりも、何か他に事情があるのかもしれないと疑っている。ただその後はちゃんと売れたので、さすがと言えばさすがである。 
 そもそも高島俊男を知ったのは、新聞での書評だったと思う。記憶違いでなければ丸谷才一の代わりに書評を書くようになったのではなかったか。当時僕は、丸谷才一大野晋井上ひさし、の日本語の先生で人気を博したお三方のものをよく読んでいた。確か彼らは交代で週刊誌にも連載していた。 だいぶ勉強させてもらったな、という感じだったのだが、そこにまた高島俊男というスターが現れたのだ。さらに高島は、漢文はもちろん、中国語もできるらしく、日本語のみならず、漢字を含めた日本語のルーツや考え方についても、非常に詳しいのだった。さらに口(文章だが)も悪く、間違いを見つけると容赦なく人を斬りつける。若くてのぼせ上ったような人間には、そのような物書きというのは多いものだが、失礼ながら高島先生は、もうすでにそんなに若い様子ではない。ある程度落ち着いた文化人であっても、若いというかイキガッテいるというか、まあ、元気なのである。当然これが面白くないわけがない。僕はいつの間にか夢中で読むようになってしまった。
 そうしていろいろ勉強させてもらったり、笑わさせてもらったりしたのだが、僕が何より高島先生に感謝していることがある。それというのも本の読み方、という基本的なことである。高島先生はとにかく大量の本を読む方らしく、少なくとも午前中はずっと本を読んでおられる様子である。そんな人なのだが、面白くなかったり、間違ったことを書いてある本に当たってしまうと、背表紙に✖を書いて放り出してしまうというのだ。たくさんの本に埋もれて暮らしておられるので、そうしないとまた手に取ってしまうかもしれないからだろう(エッセイで読んだが、たぶんそういう意味もあるが、基本的には愉快だからだろう)。そうしてほかに書いておられるが、基本的に本というのは(自分が)面白く感じられるから読んでいるわけで、面白くなかったら無理に読むことはない、とバッサリおっしゃるのである。本人はずいぶんむつかしい本もすらすら読破するような人みたいだけど、要するにそういうさばさばしたところが基本にあるらしい。僕はまだ若いということもあって、背伸びして難しくて歯が立たない本も、我慢して何日も何日も苦行のように読んだりしていたわけだが、なんだか目の前がパッと明るく感じられるような気分になって、なんというか、解放されたような感じになった。もちろん、多少はチャレンジして難しい本を読むという意義も読書にはあると思うが、しかしそれだけに囚われすぎることなんかないのだ。僕らは自由な読書人なのだ。
 という基本姿勢が若いころにできたことは、本当に恵まれたことだった。自由に読むことというのは、案外気づきにくいことであって、読書人はこれに苦労している人が多いのではないかと推察する。最初から最後まで、丁寧に意味をちゃんと理解して読むことにとらわれすぎて、読書の面白さを見失ってしまうことも多いのではないか。もちろん、そういうモノを紐解くように、丹念に読むような読書というのは最大の楽しみである。そういう基本は持ちながら、それでもやっぱり自由に読んだって何の問題はないのだ。
 もう新しい高島俊男の描いた文章を読むことはかなわなくなった。本当に寂しいことである。また読み返して、腹を抱えて笑わせてもらうことにしよう。合掌。