かわせみ側溝から

志は低空飛行 

分類上魚が消えても目の前にはいる問題   自然を名づける



自然を名づける/キャロル・キサク・ヨーン著(NTT出版

 副題に「なぜ生物分類では直観と科学が衝突するのか」とある。帯には「魚」は存在しない? とある。生物を分子レベルで解析して進化のルーツを探って分類しなおすと、複雑なルーツをたどって生物は進化した歴史がひも解かれるわけで、その進化のグループに属する種別は、いくらにでも入り組んだ状態になってしまうという。そういう中にあって、目の前に見えているはずの「魚」といわれる分類上の存在が、あたかも消えてなくなる(意味がなくなる)ということを指して、このようなショッキングな本の帯などの文になっているものと思われる。内容的にもいささか扇動的なところがあったりして、確かに困るが、それはそうなのかもしれないな、と思われた。
 分類学というのはそれなりに歴史が古い。人間が生活していくうえで、様々な生物とのかかわりの中で生きている訳で、触れられるもの目にするものに名前を付けていくのは当たり前だ。普段食べるお米や野菜の種類や、果物。そうして家畜である牛や豚や鳥。それらには名前がついており、特に意識して分類していなくとも、これは哺乳類だろうし、これは穀類、根菜類とか、見た目でもいつの間にか分類可能であろう。
 人間にはそもそも観世界センスというものが備わっているらしく、赤ん坊や小さな子供であっても、身の回りにあるものの違いをつかみ取ることができる。わんわん吠えているのは犬であり、カァーカァー鳴いて空を飛んでいる黒い物体はカラスという鳥だと、名前までは分からないまでも、直観として違う動物であると認識できているはずなのだ。
 だからこそというべきだが、新しい分類学の科学が解き明かした進化のルーツは、魚の存在を消すという象徴的なことでも分かる通り、私たちが直観として理解できている生物の分類方法を、大きく逸脱し、そうして破壊しているように見えるのである。
 そのような葛藤の歴史と、実際にはこの致し方ない直観的な分類との、少しばかりの折り合いの付け方というか、すべてが信じがたい分類の魔術的なものばかりではなく、当然ながら見た目とも一致する解析結果もあるわけで、そういうことと分類センスを合わせていく試みも必要ではないかというお話なのだと思う。今も戦いは続けられている際中ではあろうと思われるが、意外なルーツが分かり、複雑な出自が分かったとしても、実際はどこの場所にいて、どのように親戚のようなものを増やしたのかということは、当然分かりえる問題である。実際に今いる環境下において生物は住み分けて暮らしている訳で、ある程度はその場所においての分類は可能なのだ。統一統計的に樹形図を作る真実のみが、生物分類の唯一無碍の方法なのではないのかもしれない。
 ということではあるが、こういう科学的に統一的に正しい、という世界を構築する必要のない立場からすると、いわゆる便宜的に、個人的に分類することに何ら問題はない。そうして実際上は、そういうことをして僕らは暮らしている。テーブルの上に塩コショウなど並べている家庭も多いだろうし、趣味の机の上には、ペンチや定規や様々な工具類を並べている人もいることだろう。そういうことをやるのは、いわば人間の癖のようなものなのかもしれない。人によっては鯨は哺乳動物であるし、事実それは間違いではないが、これを獲る猟師にとっては、特別に大きな魚であっても不思議ではない。国際社会では旗色は悪いが、そういう文化的な分類があるのだって、当たり前のことである。イチゴやメロンが野菜でなく果物として分類されていることに、文句を言う人が、はたしているのだろうか。
 まあ、しかし、これが学問である。我々の生活とは分けて考えよう。たとえそれが我々の生活とかけ離れてしまったものであっても、科学的正しさには、事実を追及する真の目的があるのだろう。そういう感覚を学ぶのも、また楽しからずや、である。