かわせみ側溝から

志は低空飛行 

時には葬儀に通う



 特に僕の周りの人の死亡率が高くなっているとは聞いていないが、しかし葬式に行くことは確実に増えている。週に三度も葬式に行く、なんてことも珍しくなくて(どういう訳か四度以上という経験はまだ無い。三度というのは複数回経験があるのに、それは超えられない回数なんだろうか。まあ、超えたい記録ではないけれど)さすがに多いな、という気分にはなる。こういうのに慣れても仕方ないんだけれど、淡々と仕事をこなすように葬式に通っている気分になってしまう。
 葬儀社にもよるんだが、葬式のアナウンスで、やたらに悲しさを演出するところもある。家族でのエピソードを交えて、あんなに楽しかった日々を一緒に過ごしたのに、今はもう居なくなってしまって、何と悲しいことよのう(大意)、という感じで涙を誘っている。つきあいの程度にもよるのだろうけど、そういうのを聞くのは、かえってなんとなくシラケるような気もする。もちろん心が冷たいというのはあるのかもしれないが、家族が悲しんでおられることに共感が無い訳では無い。きっとあまのじゃくな精神があって、そういう盛り上げ方には俺は乗れないぜ、という頑なな気分が高まるのだろうと思う。
 ところがやはり、残された人々の落胆ぶりが激しい場合は、これは大変につらい。もう途中で席を立って帰りたくなる。逝くには早すぎる人というのはあって、奥さんはもちろん、子供さんなどが仕事をするような年に達していない場合など、ついついこの先のことなど考えてしまって、つらくて仕方ない気分になる。世の中の不条理にとてもやりきれないという切なさに胸が詰まってしまう。もともと僕は基本的に涙もろいので、葬式の間中ハンカチを手放させない。もう勘弁してほしいものである。
 先日の葬儀では、普通に仕事関係の義理のある方面であったので、けっこうビジネスライクに葬儀に参列した。読経が終わって、喪主に変わって息子さんが挨拶をした。息子さんといっても、僕より少しばかり先輩くらいの人かもしれない。その人となりの紹介が改めてあって、やはり息子さんから見ても、それなりに苦労人の親だったということだった。そして最後に一言、「息子として生まれてきて良かった」と言っておられた。あらためて偉い人だったのだな、と思ったのと、あまりにノーマークだった所為か、何かその一言で堰を切ったように涙があふれてきて困ってしまった。